2006年08月04日
審判
審判
スポーツ新聞をはじめとして、一般新聞、テレビ、インターネット調査etc ボクシングの亀田選手の判定について喧々囂々である。これだけ騒がれるということは、判定がおかしいのだろう。
はっきり言って私は見られなかった。(事情があって)
しかし、こんなに騒いでいるということは、大いに疑問があるからこれだけ騒がれるわけで、公正と思われている審判員や、放送したテレビ局、亀田選手の所属するジム等含めて、疑われている始末だ。
人間が判定すること自体限界があり、絶対なんてない。
話はそれるが、今学校で言っている「絶対評価」なんて矛盾の塊のような気がしてしょうがない。表現する時、絶対という言葉は余程じゃないと使えないのに、何万人か、それ以上の子の学力を評価する方法が絶対評価だなんて文科省の人の考え方が理解できない。「ゆとり教育」も然り、
かなり話がそれたので、元に戻ると、人が下す以上審判には差が出てしまう。ダカラ、審判は誠実に判定を行っているはずだ。
そして、一度判定が下されたら、その結果に従うのがスポーツの約束。
だけど、
1) その判定を受け取る当事者が、その判定の事を一番知っている。
2) 誠実に行うべき判定に恣意が入ってはいけない。
と思うんだけど、勝てば官軍みたいなところがあるしねー
もう、どうでもいいです。
とにかく、スポーツを楽しんでやる分には、プレイヤーが良いか悪いかだけだが、プロとか、観客がいる試合になった時、観客にアピールできる試合だったかが、問題になる。
観客にそっぽを向かれたら、そのスポーツは廃れてしまう。メディアで上手に持ち上げても観客にアピールしないスポーツは人気が落ちてしまう。ほとんどの試合は、勝者しか記憶に残らない、しかい、敗者を忘れられないような試合もある。多くの人は、そんな試合を見たいに違いないのだ。
負ける試合も内容によっては、心に残る。そー言いたい。
スポーツ新聞をはじめとして、一般新聞、テレビ、インターネット調査etc ボクシングの亀田選手の判定について喧々囂々である。これだけ騒がれるということは、判定がおかしいのだろう。
はっきり言って私は見られなかった。(事情があって)
しかし、こんなに騒いでいるということは、大いに疑問があるからこれだけ騒がれるわけで、公正と思われている審判員や、放送したテレビ局、亀田選手の所属するジム等含めて、疑われている始末だ。
人間が判定すること自体限界があり、絶対なんてない。
話はそれるが、今学校で言っている「絶対評価」なんて矛盾の塊のような気がしてしょうがない。表現する時、絶対という言葉は余程じゃないと使えないのに、何万人か、それ以上の子の学力を評価する方法が絶対評価だなんて文科省の人の考え方が理解できない。「ゆとり教育」も然り、
かなり話がそれたので、元に戻ると、人が下す以上審判には差が出てしまう。ダカラ、審判は誠実に判定を行っているはずだ。
そして、一度判定が下されたら、その結果に従うのがスポーツの約束。
だけど、
1) その判定を受け取る当事者が、その判定の事を一番知っている。
2) 誠実に行うべき判定に恣意が入ってはいけない。
と思うんだけど、勝てば官軍みたいなところがあるしねー
もう、どうでもいいです。
とにかく、スポーツを楽しんでやる分には、プレイヤーが良いか悪いかだけだが、プロとか、観客がいる試合になった時、観客にアピールできる試合だったかが、問題になる。
観客にそっぽを向かれたら、そのスポーツは廃れてしまう。メディアで上手に持ち上げても観客にアピールしないスポーツは人気が落ちてしまう。ほとんどの試合は、勝者しか記憶に残らない、しかい、敗者を忘れられないような試合もある。多くの人は、そんな試合を見たいに違いないのだ。
負ける試合も内容によっては、心に残る。そー言いたい。
教員なので、ちょっとコメントを・・・・
「絶対評価」というのは「相対評価」という今までの評価に対しての言葉で、評価基準に対してどの程度まで到達しているかを示す評価方法のことです。相対評価では、母集団の成績によって個人の評価が違います。例えば、いくら90点をとっても残りの人が全員100点であれば「最下位」の評価、5段階ならば「1」ということです。これが絶対評価で、85点以上は「5」という基準ならば、「5」になるわけです。
その基準そのものを教員が決めるわけですから、それが「絶対的」なものではありません。それは確かです。通知表の評価をすべてと思っている教員はあまりいませんよ。それよりも、学力がなくても時がたてば進級できる制度ですから、その方が無責任です。自動車学校の先生が不合格の人をそのまま卒業させませんよね。でも義務教育では、できてもできなくても卒業なんです。一日も登校しない生徒でも晴れて「中学校の課程を修了したことを証する」という卒業証書を手にすることができるんです。「ゆとり教育」についてもかなり誤解して伝えられていますが、長くなりますのでこのへんで・・・・・。テニスと関係ない話で申し訳ありませんでした。
ただ、リングに上がった時、試合1ラウンド目でダウンした時、試合中、など、彼の表情を見て、いろいろなものを背負っているように感じて、少し応援してしまいました。
でも・・・。試合は判定で勝ってしまい・・・。ああ、やっぱり、と思いました。勝つというシナリオができてたのね、と。他にも見たい番組があったのに、無駄な時間を過ごしてしまったな、と思いました。
少し時間がたっての今日、ラジオでテリー伊藤が面白いことを言っていました。彼の昨日までの考えは知りませんが、それを考え直しての意見だそうです。「俺たちは、ボクシングにすがすがしさを求めすぎてないか」というのです。2.30年ぐらい前は、女性に趣味はと聞かれて「ボクシング」とは言えずに「テニス」とか「スキー」とか、そんなことを言っていたはずで、ボクシングはドロドロとしたものがあって当然なんじゃないかと。
テリー伊藤も好きではないけれど、この話を聞いて、そうだなぁと思いました。そして、私にとっては別にどうでも良い世界になりました。このブームで楽しいと思える人が楽しめば良いんじゃないのかなって。私は、今回の彼の試合を見て感動はしませんでした。逆に彼がもし負けていたら、感動したかもしれません。「作られたキャラクター」を壊す試合が見たかったです。
お忙しい中、ていねいな説明ありがとうございます。
私は、「絶対」って言う言葉に胡散臭さを感じるんですよ。
そう簡単には、使えない言葉だと思うんですよね。
「スポーツを美しいものだとは言わせない。」
どっかにそんなセリフがありましたね。
ボクシングだけではなく、スポーツはすがすがしいものだと思いたい自分がいるのかもしれません。
テニスの世界はそうであってほしくありませんが、プロボクシングの世界は「興行」だと思います。もちろん、やっている本人は真剣で必死で、スポーツの感覚があるかもしれません。テレビ局によって対応の違いがあることに気がつきました。放映していた局は、ずっと正当性を主張していたような気がします。でも、少なくとも彼の体は鍛えられた体であることは事実だと思います。遊んでいたらあんな体にはなりません。次の試合が楽しみです。